棚橋さんが「形をめぐる冒険のはじまり」というエントリで紹介してくれた僕のツブヤキを少し長めに書きます。
さらに@yusuke_arclampさんの「手紙でもメールでも情報に形を与える意味では同じ。ただし、手紙では身体性の痕跡が情報そのものに残り、メールではデータという論理モデルに抽象化される」なんてつぶやきが目に飛び込んでくると、これは「形の会」なるものを開いて、徹底的に話をしてみるとおもしろそうだなということに。
形とは何かから始めると長いので、ここではコミュニケーションという視点から「他人と共有できる形態」という定義に留めておきます。たとえば言葉、映像、物体など、あらゆる表現は「形」と言って良い。つまり、人間は形を作り出してコミュニケーションをしているわけです。
ですから、手紙でもメールも「形」の一種といえます(これまたクドイですが、ここで書いた手紙やメールは「型」としての概念ではなく「この手紙」や「このメール」のことを指します)。
さて、手紙とメールを考えてみると、どちらも文字によって伝えるという点では同じです。ですから、僕らは「書く」という行為を通じて手紙やメールと関わります。そこまでは一緒。
ところが、「書くという行為」と「結果として生み出される形」の対応について考えると、手紙とメールでは異なる点であることに気づきます。
手紙では、書くという行為の関わり先は「この手紙」そのものです。ペンを使って痕跡を刻んでいくという"形作る行為"と、その結果には緊密な関係があります。ですから、手紙では、「この手紙」そのものが他人と共有される形になります。
一方、メールでは、書くという行為の関わり先は「メーラー(=メールソフト)」になります。そして、タイピングという"形作る行為"によって生まれるのは「メールのデータ」であり、他人と共有されるのも「メールのデータ」です。
「メーラー」と「メールのデータ」という分別を付けると、「メーラー」というのは形そのものよりも「人がメールを書くという行為のあり方」を定義していると考えられます。
むしろ、形はメール型として事前的に共有されており、それを変えてしまうことはソフトウェアの世界では標準からの逸脱として嫌気されることはご存じの通りです。
(個人的な解釈ですが、メーラーというソフトウェア全体が「飾り」であるも言えます。メールにおいて共有されるのはデータで、そのデータをいかに書かせるか/見せるのかがメーラーの本質なのですから)
ここから先は皆さんで感じていただければと思います。手紙を書こうと思うとき、どうやって手紙を選んでいますか?あるいはメールを書くときにどうやってメーラーを選んでいますか?もっと対象を広げて、他人にメッセージを伝えたいときに何を基準に「形」を選んでいるのでしょうか?アナログな形とデジタルな形には、どういう区別があるのでしょうか。
我々はソフトウェアなしに生きられない世界に住んでいます。たとえ、あなた自身が使わなくても、あなたが属している公共機関は必ずソフトウェアを使っているでしょう。ですから、ソフトウェアとどう付き合うべきかというのは避けられないテーマ。
我々は既にソフトウェアに対する関わり方を無自覚に獲得しています。しかし、それが豊かな体験かは別の問題。僕自身はより豊かな体験になっていくべきだと感じます。では、どうやったらそれが実現できるのか。社会学的なアーキテクチャというのは、そういった視点なのです。
さて、前述の「形の会」ですが3/4(木)に第1回会合をすることになりました。興味がある方は連絡をいただければと思います(小部屋なので参加を確約はできませんが)。
