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"世界"に"ユーザー"はいない

 石川さんのところに行ったときに「テクノロジーは世界をインターフェースする」という話を聞いたのですが、その元ネタがこれ、「Designing World-realm Experiences:The Absence of World "Users"(世界経験のデザイン_"世界"に"ユーザー"はいない)」。

 書かれたのはリビングワールドの西村佳哲(にしむら・よしあき)さん(参考記事:リビングワールド:世界を感じるものづくり)。様々なデザイン活動でも知られていますし、最近では自分の仕事をつくるという本でも有名です。

 で、西村さんが1999年に書いた文章。かなりシビレます。長い抜粋。

デザインとは、インターフェイスすることであって、インターフェイスをつくることではありません。私たちは、他の人々や生きている世界と接したいのであって、コンピュータなどの情報機器や、インターフェイスデザインと接したいわけではない。それらはあくまでも、媒介に過ぎないはずです。

にも関わらず、情報機器やインターフェイスのデザインが妙に雄弁化して、その邪魔をしていることが多い。本来、その間をインターフェイスすることが目的のはずなのに。そして、向こう側の世界へ私たちをつなぐ前に、その媒介物の「ユーザ」として拘束してしまう。

本来的には「ユーザ」なんていないのかもしれないのです。だって書籍ユーザなんていない。いるのは、リーダーです。サーフボードユーザなんていない。いるのは、サーファーです。最終的なゴールは、「ユーザ」と呼ばれる存在のいない経験の総体をデザインすることだ。それを忘れてはいけないと思うのです。

誰もが知っているように、すべての創造行為で最後に問われるのは、つくる能力より、むしろ「感じる能力」です。音楽において決定的な力は、演奏する力ではなく聴く力だし、写真においては見る力です。環境問題も、環境そのものの問題というより、環境と自分の関係性をめぐる、感受性の問題ですよね。

人が真にクリエイティブであるためには、「生きている世界」をビビッドに感じつづけていることが、まず何よりも必要だと思います。ほおっておくと、つい当たり前な出来事の積み重ねとなって精細を欠いてしまう日常生活を、いきいきとした新鮮な世界経験に転化していく仕掛けが、いたるところに必要だと思うのです。

私ははじめてインターネットに触れた時、ものすごく感動しました。どんなページよりも、インターネットという大きな仕組みそのものに感激したのです。「これこそデザインだ!」と思った。デザインとは色や形ではなく、人の世界観を拡げる仕事でしょう?

あらゆる近代のシステムには、洗練されていくに従ってインフラや構造を隠蔽し、ブラックボックス化してゆく傾向があります。しかし、それは本当の洗練なのでしょうか。
デザインの最大の目的は、人の「生きる力」を最大限に引き出すことだと思います。しかし、近代はこうしたブラックボックス化を通じて、人々を「生きる人」でなく、単なる「ユーザ」や「消費者」に限定してきました。これは、人間をスポイルしてしまう行為だと私は思います。

インタラクションデザインが究極的に目指す地点は、「そのものになる」という全体的な経験のデザインでしょう。私が考えるインラクティビティとは、ユーザが何か働きかけると、何か別のイベントが起こるといったことではありません。「そのものになる」という経験です。

「デザインとは、インターフェイスすることであって、インターフェイスをつくることではない」ということ。「インタラクションデザインの究極の目標は、『そのものになる』という経験のデザインである」こと。そして、「そのインタラクションが完成した時、『ユーザ』という概念は消失する」ということです。

ユーザとデザイナーという二分。ユーザとモノという二分。このような分離のない、全体的な経験をデザインすることが重要だと思います。より具体的に言えば、「ユーザ」という言葉をデザインの過程で使うことに、警戒心を持つべきです。


 これを読んで、ぐっと来ない人はアーキテクトじゃない(少なくとも僕の感性では)。 僕の定義ではアーキテクチャは「使うと作るを結ぶモノ」です。アーキテクトは、そのモノを枠組みとしてデザインする人です。

 使うと作るは、ユーザーとビルダーというだけじゃない。使う行為を作る行為を意味します。これはクライアントとエンジニアというだけではなくて、エンドユーザーとクライアントでもいいし、設計者とプログラマでも良い。ソフトウェアは情報という媒介を通じて、関係性をデザインしているモノ。

 使うのも作るのも人です。その両者の関係性をインターフェースすることがアーキテクチャの大事な目的です。
 
 「人が真にクリエイティブであるためには、「生きている世界」をビビッドに感じつづけていることが、まず何よりも必要」が、本当に大事な才能です

 この世界には誰が居るのか?何を考えているのか?、そういうことを感じられれば、「どうやって、より良い世界に行けるのか?」と問うことが出来る。知識や技術は手段に過ぎません。その場の制約にあったものを選べば良いだけ。

 「デザインとは色や形ではなく、人の世界観を拡げる仕事でしょう?」。ここのクダリは感動して泣きそう。そう、そうなんですよ!アーキテクチャが人の世界観を拡げることができたら、こんなに素晴らしいことはない。ソフトウェアには、まだまだその可能性があるのです。


 久しぶりにゾクゾクする文章に出会いました。絶対、どこかでお会いして話がしてみたい!

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コメント (1)

ariyos:

すげー!ほんとにすごい。

僕が、僕自身がどう世界と接していきたいか。その姿勢というかアクションで人と関わっていくことこそがデザインであり、アーキテクトすることであると。

西村さんには間接的にだけど、すごくお世話になってる気がしています。「自分の仕事をつくる」しかり。

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2008年05月02日 21:31に投稿されたエントリーのページです。

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