哲学者である河野さんの暴走する脳科学 が良かったです。
河野さんの主張は、
心をつねに身体性と環境との関係によって理解する。
ということに尽きます。心が心臓にあると思っている人はいなくても、脳こそが心の実体である、という考えをもっている人はいるかもしれません。でも、そうではないのです。
近年注目されている「拡張した心(extended mind)」という重要な概念があります。
心は、脳も含めた身体の内部器官のみならず、その全身の振る舞い、そして人間が作り出した造作物において実現していると考えるのである。心は、身体の内部のみならず、外部環境を含めたトータルなシステムの中に成立しているのであり、脳だけにあるのではない。
そもそも心とは何でしょうか。ライルは哲学的な行動主義と呼ばれる概念で、心を次のように説明をします。
心はどこかに存在しているモノ(実体)ではない。心と呼ばれているものは、実は、顕在的・潜在的な行動パターンのことなのである。「優しさ」というのは、心というモノが優しいという性質をもっていることではない。ある人は、ある条件の下で、「優しい」と呼ばれる行動パターンをとる傾向があるということに他ならない。優しいとか、勇敢とか、賢いという言葉は、心という実体を形容する形容詞ではなく、行動の特徴について述べた副詞なのだ。
心とは「身体から表出した表現全体」なのです。”心なんてものはない”なんて言ってません。心を認識しようとしても「身体から表出した表現全体」としてしか理解できないというだけです。
悲しいときに感じている”、けだるさ、涙、体の重さ。あるいは楽しいときに感じている高揚感、どきどき、わくわく。これらは、まさに身体で感じていることです。
しかも、これらは環境とインタラクションし、相互関係の中から生まれてくるものです。人というのは、その人の周りにある自然環境、人間関係、社会環境から独立して存在できません。悲しいという感情は、突然、わき起こるのではなく、環境との相互作用で生まれているものです。
この話はアフォーダンスからも理解できます。アフォーダンスでは、環境側に動物が行動するための「資源」があるとされます。環境の資源は、動物が特定の行動を取ることをアフォード(提供する、供給する)します。たとえば「水平で、十分な広がりを持ち、固い面」という資源は、動物が歩くことや走ることをアフォードするのです。
このアフォーダンス理論に従うと、行動の原理は180度変わります。「人は自らが歩くという能力を持っているから歩いている」のではなくて、「環境に人が歩けることを提供する資源があるから、人は歩ける」というわけです。
逆方面から攻めると、國吉先生のロボットには脳も心もなくても「人間くささ」が生まれているのです(身体の情報構造@デブサミDAY2)。見ていない方はビデオを見て欲しいですが、人間の構造を模したロボットは、それだけで人間らしさを獲得しています。しかも、それは環境のインタラクションで生まれているのです。寝ている状態ではたいして人間くさくないのに、起き上がった後の"ふんばり"が、とても人間らしい。
河野さんは、また別の分かりやすい例を出して説明しています。
「計算する」ことは、人間の心的な能力であることに異存はないだろう。しかし計算は、心=脳の中で行われるものだろうか。多くの計算は、心の中だけ、脳の内側だけで成立するものではない。たとえば、紙とペンなしに3桁どうしの掛け算ができる人がどれだけいるのだろうか。たしかに、掛け算の九九のような、ごく簡単な計算は自分の脳内で成立可能かもしれない。しかしその場合でも、私たちは、子どものころに声を出して一種の身体的な習慣として獲得したのであり、そのときには脳だけではなく声を出す身体が必要だったはずである。
記憶も同じですね。カレンダーや手帳がなければ記憶を保持するのは難しい。言葉、文字、指標、また、社会規範や歴史など、脳から外に出ている様々なものがなければ僕らの生活はほとんど成り立たないのです。
このように心が環境との相互作用であるとすると「脳そのものをアップグレードする」という手法には違和感を覚えざるを得ません。
極論すればSFの世界にあるような「脳にジャックインする」ブレイン-マシン・インターフェースへの違和感です。これについては自身が難聴のために内耳プラントを受けたコロストという人が次のように述べています。
人間の体は、アップグレード可能なデスクトップパソコンとは違う。『人間のコミュニケーションを見直す』のであれば、人々に聞き上手になる方法や交渉術を教えるというのはどうだろう。『数学的能力を向上させる』のであれば、数学の授業で生徒数を半分にし、教師の給料を2倍に増額するという手だってあるだろう。人間を人間らしくするのは文化と教育であって、ぼくらの体に埋め込む機械ではない」
そして、河野さんは次のように警鐘を鳴らしています。
社会環境を固定したままで、ただ個人のみその環境への適応を要請することは、心理主義そのものである。<中略>この語り口では、教育とは、学習者の脳の内部に知識やスキルを構築することだと想定されているのである。そこには、知識を一種のモノとしてとらえ、それを学習者に効率よく注入させるという、かなり古臭い教育観をみることができる。日本の教育システムの中に脳テクノロジーが導入されたときには、社会のために個人を教育するといった復古的な教育観を助長する可能性が高いように思えてならない。新しいテクノロジーは、古臭い考え方を実現する手段を与えてしまうだろう。
人間が人間らしく、心を豊かに育み、いきいきと生きるために必要なのは、身体と環境の健全な相互作用なのです。
本屋に行くと山のようにノウハウ本が積まれています。そこで言われている効率的やレバレッジって何なのでしょうか?。たくさんの情報に触れることが、知識や情報を知っていることだけで差別化していることが豊かな暮らしですか?
重要なのは、個人が自律性を身につけ、知識を盲信せずに一定の距離を保ちつつ、他人と共有し共創し、常にそういったことが可能な人間関係を築くことでしょう。
脳が、どんな役割を持っており、どう動くのかを知るのは悪いことではありません。しかし、人の行動の原点を"個人の脳"に求めるのは「犯罪者は脳がおかしい」という短絡的な発想であり、その裏にある社会環境や人間関係の問題を隠蔽してしまう。「脳を正せばいい」という帰結は脳科学の危険な側面なのです(ちなみに僕は茂木さんは好きです。彼のブログは示唆に溢れ、世界を豊かに捉えようという意思が感じられます。ただし「脳が全てだ」という誤解を招くような言動は良くない。まぁ、そんなことを本人は言っているつもりはないのでしょうが)。
とはいえ河野さんは脳の持つ可能性について否定をしているわけではありません。前述のコロストが埋めこんだ内耳プラントはマイクについけた22本の電極が聴神経を刺激するというものでした。これによって2音節の単語の9割以上を聞き取れるようになったそうです。
脳の可塑性とは、環境への適応能力の現れだということである。ブレイン-マシン・インターフェースもまた、拡張した心の現れなのである。とするのならば、私たちが驚嘆、あるいは、恐怖しているのは。脳科学やロボット工学そのものであるよりも、それらが提供するものをも飲み込み、吸収して、ついには別の生物になってしまいかねない自分たちに潜在している変身の力なのではないだとうか。
<中略>脳とは、最も可変的で、環境提供的な臓器なのである。
だからこそ、僕の興味は、どこまで脳がITという環境に対応するのか、ソフトウェアがどこまで世界を豊かできるのかということです。
まさに西村さんが「"世界"に"ユーザー"はいない」で語っていること。
誰もが知っているように、すべての創造行為で最後に問われるのは、つくる能力より、むしろ「感じる能力」です。音楽において決定的な力は、演奏する力ではなく聴く力だし、写真においては見る力です。環境問題も、環境そのものの問題というより、環境と自分の関係性をめぐる、感受性の問題ですよね。人が真にクリエイティブであるためには、「生きている世界」をビビッドに感じつづけていることが、まず何よりも必要だと思います。ほおっておくと、つい当たり前な出来事の積み重ねとなって精細を欠いてしまう日常生活を、いきいきとした新鮮な世界経験に転化していく仕掛けが、いたるところに必要だと思うのです。
私ははじめてインターネットに触れた時、ものすごく感動しました。どんなページよりも、インターネットという大きな仕組みそのものに感激したのです。「これこそデザインだ!」と思った。デザインとは色や形ではなく、人の世界観を拡げる仕事でしょう?
ソフトウェアが、環境と自分の関係性をめぐる感受性を豊かにし、人の世界観を拡げることできるのではないか。そうすれば、より豊かに環境との相互作用を深めることができるのはないか。
だからこそ、ITアーキテクトがデザインするのはソフトウェアではないのです。われわれがデザインすべきなのは人と環境がインタラクションする総体、豊かなコミュニケーションの総体なのです。
![]() | 暴走する脳科学 (光文社新書) 河野哲也 光文社 2008-11-14 by G-Tools |

