建築には機能主義という言葉があります。
機能主義はモダニズム建築を代表する概念の1つで、アドルフ・ロース、オーギュスト・ペレ、バウハウスと言った名前が知られています。その次の世代としてはル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエといった名前が有名でしょう。
時代背景から考えてみます。ロースが1870年生まれでミースが1887年生まれなので、19世紀末から20世紀初頭にかけて盛り上がった言葉だと言うことが分かります。19世紀末といえば産業革命が落ち着き、自動車など市民生活に機械が入り始める時期です。フォードが、かの有名なフォード・T型を市販したのが1908年10月のこと。フォードがT型の開発でもっと注意したのがフォード・システムに見られるような大量生産に適応させた車である点です。つまり、19世紀末から20世紀初頭というのは「機械による機械の大量生産」時代の幕開けともいえる時期だったのです。
この流れにモロに影響を受けたのが機能主義です。ロースの「装飾は罪悪である」、ミースの「Less is more(より少ないことは、より豊かなこと)」、コルビュジエの「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」などに代表されるように、機能の合理性を求め、無駄な装飾を排除していった建築です。ミースが作ったシーグラム・ビルなど、僕らが目にするビルの原型はこの時に生まれました。前置きはこのぐらいで。
僕が感じた機能主義とは「機能を前提にして形を付けていった」ということです。では、その「機能」というものはどこから出てきたのでしょうか?
建築家の藤本荘介さんと話をしているときに機能主義に対する考え方を聞いて非常に共感することができました。 2004年度JIA新人賞を取った「伊達の援護寮」に関する「Space of no Intention」という文章にも表れています。
「部分」というのは、決して「部品=パーツ」ではないということだ。単なる部品を組み合わせていくというのは、それは機械であり、つまり近代であろう。部品を組み立てるためには、その上位概念として部品を配置するための大きな秩序が必要である。そうではなくて、ここでいう「部分」は、局所的な部分と部分の関係性のことであり、その関係性自体のなかから小さな秩序が立ち現れてくるのである。なにかが単独で取り出せないときには「部屋」という完結したパーツを前提とするよりも、「居場所」という、ある種あいまいで、関係性の中からしか定義できない場所がよりふさわしいのではないかと思えるのだ。
意図のない場所。それはある意味で、機能主義に真っ向から対立する。しかしこれは、単に意図がまったくない、いい加減な空間という意味ではない。そうではなくて、特定の機能はないが、そしてないゆえに、逆に人に活動を選択する自由を与えるような場所である。押し付けるような意図はないゆえに、きっかけに満ちている、そうして他の場所と関係をもつことができる。人が活動する場所として強固に、緩く成立している。
1LDKという言葉は非常に機能主義的です。この部屋がリビングであり、この部屋がダイニングであり、この空間がキッチンであり、この部屋が寝室である。そのように機能がまず決定し、そこに形が与えられます。
では寝室という部屋は「寝るための機能をもった部屋」なのでしょうか?こう言い換えてもいいです。「寝るための機能をもった部屋」は単独で成り立つのか?そうではないだろうと思います。寝室は他の部屋との関係において一番寝やすい居場所というだけです。逆転すれば他の部屋が寝にくく、寝室が一番寝やすいというだけなのかもしれません。
もう1つ。tanahashiさんが茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁というエントリで次のように書かれています。
アフォーダンスについて説明する際にはよく「椅子はすわることをアフォードする」などと言ったりしますが、ここで内田さんは見事にその価値を反転させています。椅子はすわるという機能に限定しまう、と。そして、それ以外の場所にすわることをむずかしくしている、と。
工業製品としての椅子は機能主義の権化です。座ることに特化している。椅子は単独で成り立っていそうです。ですが、実は「それ以外の場所にすわることをむずかしくする」という他者への強い関係も内面に有しているのです。
道ばたの縁石に腰掛けるとき、そこは座ることをアフォードしているのでしょうか?それとも、それ以外の場所が座らないことをアフォードしているのでしょうか?
このアフォードの肌理がもたらしている感覚は非常に面白いです。
ここに至って、僕としては機能とは単独の存在として切り出して形を有するようなものではないと考えます。すべては関係によって成り立っている。それが凸的とか凹的であるとか、そういうことではなくて総体そのものが関係によって構成されている。ただ肌理が詰まっているところと空いているところはあります。関係の強弱は絶妙なバランスの中で全体として存在している。部分と全体に本質的な違いはありません。
僕が設定ファイルが好きなのは、それがオブジェクトの関係を示しているから。アノテーションがなんとなく嫌いなのは機能の意味づけに過ぎないから。
メタデータはコンテキストによって変化します。とはいえ、データはスキーマを与えないと処理ができない。だからこそ、マッシュアップによってスキーマを外すことが新たな価値につながる。
僕はオブジェクトではなく、関係だけをプログラミングすることで動きを生み出すことができないのかと考えています。そのとき、アーキテクチャは構造として方向性を与えるために使えるのではないか。これは國吉先生の話から受けた感覚です。
大きな意味での関係を感じる感性がとても大切になります。例えばインターネットのすごさを感じてドキドキした経験があるかどうか。OSSでも、Blogでも、なんでもいい。自らのアクションを通じてインターネットとインタラクションし、そこに関係を見いだせたかどうか。
この感覚が、何を示しているのが僕には分かりません。もう少し立てば振り返って分かることもあるでしょう。だから、ここに書いておきます。
