世界は配置(disposition)であり、人間は自らを取り巻く配置によってたえず態勢づけられている(disposed)。
なんのことやらですが、単純なモノの配置から、権力の配置(政治)、価値の配置(経済)、創造物内の配置(芸術)、気持ちの配置(愛)まで、世界というものを諸要素の配置(disposition)によって考えようというものです。
その中でも哲学者の萱野稔人さんと認知科学者の染谷昌義さんの対談「世界・環境・装置―<ディスポジション>の可能性をめぐって」が面白かったです。
一望監視方式(パノプティスム)というのは「相手から見られずに相手を監視する」という権力技術を指しています。<中略>中央の塔のまわりに独房が配置され、中央の塔からはすべての独房の様子を一望に監視することが出来る反面、監視される独房からは塔の中の様子がみえず、誰が監視しているのかとか、そもそもいま監視がなされているかどうか、ということすらわからない。<中略>ここにあるのは相手になにかを命じたり禁止したりというかたちで作動する権力ではありません。そうではなく「相手はこちらを見ることができないが、こちらはたえず相手を見ることができる」という視線の非対称な配置によって相手の行為を条件づけることで作動する権力です。
こうした手法は、監視される対象に「監視されている可能性を感じさせる」ことで、実際の監視を超えて規律を守らせることができます。こうした権力を規律型権力と称しています。
規律型権力は、<中略>「つねに監視されているかもしれない」というかたちで監視の視線を内面化した主体につくりあげることで人々の行為をコントロールしようとします。そこでは、人々は内面化した視線にもとづいてみずから規律にしたがって行為するわけですね。
これに対して、より人々に対して自然にアプローチする方法として「割れ窓理論」を紹介しています。
割れ窓が1つでもあるとその建物は破壊される可能性が高くなる、という理論事で、それにもとづいて、街の中から割れ窓のような好きをなくしていくことで治安を良くしていこうという治安管理の実線が生まれました。
これは環境を変質させることで、その中が行動する人の「傾向性」が変わっているというもの。
環境のくみかえによって、人々が暴力にうったえる傾向性をコントロールし、低下させていこうという措置にほかなりません。<中略>現代の社会は、<中略>環境のデザインによって行為をコントロールするという方向に少しずつ重点を移している。
まぁ、もっと平和な例で言えば、
マクドナルドで椅子の堅さと冷房の強さで客の回転率をコントロールする
アーキテクトがしていることは、アーキテクチャという環境を通じて、エンジニアであったりユーザーをコントロールしようとすることなのかもしれません。もしかしたら、優れたPMがやっていることも同じ。
これを聞いて「意図させないコントロール」として嫌悪を覚えた人もいるはずです。でも、組織の効率を上げるためには権力は必ず必要で、そのためになんらかのテクノロジーやテクニックを使うことは当たり前のことです。そのとき、環境をデザインするのは、正面切って力でぶつかり合うよりもスマートな方法。
権力の善悪はシンプルに決まるモノではありません。どちらかといえば、チームや組織によって"はぐくまれる"ものでしょう。
そもそも何のためにやっているのか。そのことを忘れずに組織によってはぐくまれる価値観を信じながら、「少しでも良くしたい」と努力していくこと。そうやって前向きに進んでいくことが、いろいろなことを解決していくのだと思います。
![]() | ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて 天内 大樹 現代企画室 2008-06 by G-Tools |


