「壮大な無駄」というのは1つのキーワードになりえると感じています。やるなら徹底的に。
ウェブ3.0の姿をつかめ:何がキモになるのか?で引用されているO'Brien氏が定義したWeb3.0は「非集中化した非同期なわたし」です。
「ウェブ1.0は集中化した彼ら、ウェブ2.0は分散化したわれわれ。そしてウェブ3.0は非集中化したわたし」だと彼は書いている。「(ウェブ3.0 は)世界に参加したくないときのわたしに関するものであり、自分の環境に誰を導き入れるかをより強く制御したいというわたしの側面に関係している。ウェブ 3.0では、わたしの注意の対象が広がって、自分が注意を払うのは誰か、あるいは何か、そして自分を誰に見せるかということにまで及ぶ。それは、わたしにとってのより効率的なコミュニケーションなのだ。」(O'Brien氏)
ここにある「効率的」は壮大な無駄から生まれています。RSSによる非同期化は一見すると効率的な存在ですが、裏でBotがRSSを読み込んでいる数を見ると壮大な無駄の上に成り立っていることが分かります。
先日、UNISYSの牧野さんと話したとき「もはや(コンテンツの主体が)サブスクライバーを管理することからも解放されたい」という事を言っていたのですが、この感覚も分かります。個人としてはパブリッシュだけしていれば、それを誰がどう判断するかは基本的に関知しないという管理の方法がわかりやすい。
もちろん、だだ漏れではありません。ある一定の条件を満たした誰でも、つまり限られた誰かだけが見られることをプラットフォームが保証すればいいのです。これは個人情報についても同じ事です。我々はサブスクライバを選ぶのではなく、プラットフォームを選ぶのです。こういう感覚が「非集中化した非同期なわたし」かなと思っています。
一方でインターネットの効果がぐるっと一周して出てきた結論は「情報過多の時代で逆に判断できない人が増えているから、むしろレコメンデーションへの依存は高まっていて、世間は以前よりも流行に流されやすくなっている」というところです。ただ、ここで言うレコメンデーションはマスメディアのそれとは意味が違っています。主体が直接的にマスメディアではないのです。ソーシャル・レコメンデーションともいえる状況に変わってきており、これは結果に立ち現れるという点がキモになります。
正しいなぁと思ったのが渡辺聡さんが僕たちとマスメディア、と実感の経済に書かれている内容。
以前の、マスメディア情報にアクセスするという構図だと、情報はパッケージされてまとまって受け取る形になる。チャンネル選択や媒体選択というのはもちろん出来るが主軸としては受身が多い。しかし、最近の形は自分の動く環境に自然と世の中の情報が溶け込んでいる、取り囲まれているような状況に近い。また、周囲のコミュニケーションとこの手のニュース的情報がまとまってる場合、典型的なのがコメント型のBlogやSNSでの日記だが、これらは「私はこのニュースにこう思う」というものと一緒に情報を受け取ることになる。つまり、・友人知人のこと、身の回りのこと、・世の中のことを同時に感想付きで受け取ることになる。
このような環境になると、どこか自分から遠いところに世の中の仕組みというものがあり、それを一方的に受け取るという構図から、自分の身の回りの出来事があり、友人知人や人の流れも加味してその延長線上に世の中の仕組みや出来事があるという理解の仕方に変わってくる。
もしかすると、ある面では狭義のメディア機能というのは失われていってるのかもしれない。でも、その反対側で新しい道と世の中との距離感の掴み方が同時に生まれてきているのも感じ、新しい可能性も感じる。
みんなが同じ情報にアプローチした結果を見るというのは社会全体では壮大な無駄があります。ただ、その無駄に意味がある。フィルターされてなお残ってくる情報は数が意味を持ちます。吉川さんの苺77%で実感したTwitter上での口コミの威力なんて、その実例。
ここ最近私のTwitterのタイムライン上には「苺77%」という言葉が頻繁に流れてきていた。いつ頃からかは覚えていないが多分数日前からだと思う。文脈からしてどうやらチョコレートのことらしいというのは理解できたのだが、ちょうど出張で日本を離れたこともあり確かめることが出来ないでいた。ところが昨日会社帰りに寄ったスーパーで、ビール売り場からレジに行く途中でふとこの「苺77%」というキーワードが頭の中によみがえり、結果菓子売り場に寄って思わずこの商品を購入してしまったのだ。
Twitterのような多人数チャットでは、相手の発言者のパーソナリティが判った上でそのメッセージを読んでいることが一番大きい。情報の提供元がちょっとした知り合いなのでそこから聞いた口コミ情報には影響されやすいのだ。
TwitterやRSSを数百、数千と見ている人がいる意味が分からない人はまずいです(僕は無理なのですが)。だから「yusukeさんは、どうやって勉強しているのですか?」と聞かれると困ってしまいます。「知っている人に教えてもらう(その人が僕に教えている意思があるか分からないけど)」という以上に言いようがないのです。で、深めたいところだけ自分で調べている。でも、それすらも誰かが良いというのを見てやっています。それでも結果的には後追いにはならない価値を見つけることができます。そういうもんです。
さて、今後は壮大な無駄がどこに現れるのか。もしかしたら映画のネット配信なんて、すでにその代表かもしれませんね。ディスクに焼いたものを使い回すのではなく、各個人に同じモノを配信してしまう。ネットワークが内部バスよりも早い時代が来るまでにはもう少し時間がかかります。であれば、処理演算はCPUがあるところでするしかない。だから、そこに大量のデータを送り込んで処理をさせるというモデルは十分に有効です。誰かブラウザ上で数テラレベルのデータをストリームで処理するアーキテクチャとか考えそうです。
そうなればWebAPIとか意味がない。あちら側にあるデータを全部持ってきてしまえばいい。今度は逆にあちら側に置いておく意味があまりないのです。このまま進めるとP2Pみたいな話になってしまうのですが、まぁそれほど簡単にはいかないでしょうね。
gdgdになってきたのでまとめ。何が効率的で何が無駄なのかというのは90度、180度視点を変えるとぐりっと変わります。無駄が効率になり、効率が無駄になる。しかも、壮大にやることが重要。自分一人で狙いすまして効率化するには限界があるって事で。
