思いのほか「アーキテクチャ」という言葉が広がりを見せていて、とまどっています。
建築のアーキテクチャやソフトウェア/ハードウェア・アーキテクチャだけではなく、社会や組織、あるいは政治、経済までも含むような広い概念に対して「目に見えないが存在する構造」ようなものがアーキテクチャとして定義されています。国内では東さんが積極的に使っており、宮台さんや濱野さんといった"論客"たちが話を展開しています。海外の状況は分かりませんが、そもそもの始まりはレッシグたんですね。
日経BPのケンプラッツに「「アーキテクチャ」で建築を面白くする」という記事(コラム)があり、それなりにまとまっています。
(包括的な意味での)アーキテクチャは、法、規範、市場と並ぶ、あるいは他を上回るポテンシャルを持つ力になった。“権力”と呼ぶように、たぶんに警戒を込めてもいるのだが、この概念は現代の社会像を把握する手がかりとなり、将来の社会のあり方を考えるために有効な視点をもたらす。そういった期待を、いまの論者らは持っている。
全文読んでもらうとよいのですが、まぁ「なんだかよく分からない」感があると思います。ただ、そういうものなので心配することはありません。僕も、なんだかよく分からないですから。
世の中で良く分からない現象が起きていると、その現象を分析するような思想論が興隆るのは大昔から繰り返されている歴史です。そういった論は「大統一理論」を掲げるもので、今回であればアーキテクチャという言葉がそれにあたります。簡単にいえば「いま、この世の中で起きているすべての現象はアーキテクチャという言葉で説明できるのだ」ということです。
インターネットの普及開始が1995年として、10年周期論に従うと今年は2週目の真ん中です。そこら辺になると1週目の喧騒が一般化してきて、それらに対するギャップやデバイドが、既存の文化との間ででてくるものなのでしょう。いや、そう言う意味では本当に面白い時代で、社会人歴が重なっていることに感謝したくなります(いわゆる75/76世代ですね)。
とすれば、こういう「論」が広まるのは文化が変化する過程で起きる当然のことだし、良いとか悪いとか、そういうことでもないのでしょう。確かに数年前から起きているトレンドだったし、僕自身も環境やプラットフォームといった話に興味が強いので楽しんでいる面もあります。彼らの本も読んでいますしね。
ただ、なんか違和感がある。
自分がアーキテクチャという言葉が好きなので、それが手元を離れてメジャー(?)になっていく残念感かもしれないし、単純に彼らの思考能力についていけていないだけの嫉妬かもしれません。まぁ、ありがちな批判としては「思想だけで現場が分かってない」というやつなのでしょうか。
また、僕個人としてもアーキテクチャという言葉を発信し続けるつもりなので、もしかしたら、あまり変わらんことをしている気もすれど。
悩んでも仕方ないので、いろいろと目を配りながら目の前の仕事を片づけましょうということで、今日のところはエントリを閉じまする。なんだこの、お悩みエントリは!
