松岡正剛さんの「知の編集工学」は久しぶりにがつんと来た1冊でした。最も萌えたのは、以下のくだり。
情報はどこからやってきたのだろうか?情報は生物からやってきたのだ。
一言でいって、生物は情報のかたまりである。生物は情報そのものであり、生物の種とは、それぞれの生物がどのような情報編集をしているかの違いだ。
どのような生物がどのような編集のしくみをもっているのかということが、地球上の生物活動の本質である、私はそう考えている。
「情報」は生命とともに生まれ、「編集」は生命と共に開始したからである。
生命はもともと情報のプログラムを"ネタ"にして形成されたのだ。
先に生命があって、あとから情報が工夫されたのではない。先に情報があって、その情報の維持と保護のために、ちょっとあとから"生命という様式"が考案されたのだ。
生命があるから情報があるのではなく、情報を維持するために生命がある。この指摘は、ちょっとばかり衝撃的でした。遺伝は種の保存ではなく、情報の保存が目的だというのです。
そもそも種というくくり自体は人間が決めたものですが、その本質は編集の仕組みによって分かれるべきだと(種ってなんだというのも面白い話ですが。単一の種が複数に分かれるなんて、昆虫の世界ではよくある話ですし)。
この前提に立つと人間は情報が生んだ高機能な媒体装置ということになります。情報が大好きで優れた情報の編集能力を持ち、遺伝情報以外にも文字や音声などで情報を流通させることができます。
情報にとってインターネットは新しい環境の登場だったはずです。以前は、その流通が地理的制限に阻まれていました。それがインターネットによって自由に枝葉を広げることができるようになった。
そこで起きたのは情報同士の生き残り競争です。インターネットではローカル情報でもあっという間にグローバルになります。古い例ですが大学ローカルネタだった生協の白石さんは、一瞬にして日本グローバルネタになりました。一方で、情報の受けても多様になります。これまでは強いメディア(テレビや新聞などのマスメディア)に最適化された情報がもてはやされていたわけですが、これからは情報そのもの強さが求められるというわけです。
という妄想はさておき(w。
アプリケーションのアーキテクチャというのも編集に深く関わっています。全てのアプリケーションは情報の入出力で成り立っています。いかに情報を入力し、いかに情報を出力するか。その入出力が編集です。アーキテクチャというのは、この編集の仕組みを決定しているといっても過言ではありません。ですから、人間の持っている本来的な編集能力を理解することは、システムアーキテクチャを考える上でも非常に重要だと思っています。
正剛さんはコミュニケーション・モデルについて以下のような指摘を行なっています。
これまで長らく信奉されていたコミュニケーション・モデルは「シャノン=ウィーバー・モデル」というものである。送り手の発信源から発した一定のメッセージが、まずトランスミッターをへてシグナル化され、途中でノイズの擾乱を通過しつつ、レシーバーをへて目的の受け手に達するという模式図だ。このモデルは通信理論を前提につくられていたため、かなり強力で、ずいぶん長いあいだにわたってコミュニケーション一般のモデルとも考えられていた。
これ以外にもいくつかのモデルが提示されていますが、どれもメッセージが交換されるという意味では全く同じものです。しかし、正剛さんは
じつは、新しいコミュニケーション・モデルはもっと明快につくれるのである。それは<編集>という作用を加えることですむ。情報コミュニケーションのプロセスを「メッセージを交換する」と見るのではなく、「エディティング・モデルを交換する」ととらえなおすことなのだ。なぜ、そんなことになるのかというと、そこで行なわれているのはたんなる情報交換やメッセージ交換ではなく、意味の交換であるからだ。
シャノンが考えた通信モデルでは、たしかにメッセージは等価交換されるようになっている。らだし、それは「A」の音は「A」の音に、「はい」の形は「はい」の形に、という等価交換だ。ようするに意味の中身は関係ない。電話やファックスはその形式的な、表面的な情報の音や形だけをエンコードしたりデコードできるようになっている。
しかし、私たちのコミュニケーションは意味を写像的に交換する。
そして、情報交換の構造よりも、その場における編集構造が重要だと指摘しています。ようはその場の雰囲気や話の流れみたいなものです。会話の輪に加わると、しばらくは話が見えないけど、ふと理解できるようになると意見が言えるようになる。こういった感覚というのは、コミュニケーションに絶対的なルールがあるわけではなく、ある一定の編集構造を理解しあった上で、意味のやり取りをしてるからだと考えられるわけです。まったく同じセリフでも状況によって意味が異なるというのはよくある話です。
XML交換でシンタックスが問題なるのは、まさにこの点です。情報の形式としてのXMLには本当の意味を含めることはできません。タグに付与された意味は、あくまでもそのシステムとしての編集構造で有効なものであって、他のシステムで有効ではないのです。だからこそ業界団体で共通シンタックスを考える必要性があるのです。
他の例をあげてもいいです。ERPがなぜ破綻したのか、CRMやCMSといった情報を直接扱うアプリケーションの導入がなぜ難しいのか。すべて編集構造の不一致ととらえると理解することができます。「どうも、このXMLは気持ち悪い。なんだ、このタグは」というのは、ま、そういう感覚で正解なわけです。
正剛さんも書かれていますが、これを解決するとして長らく考えられた来たのがエージェント指向です。とはいえ、現状のエージェント技術では相互作用性に乏しく問題を解決するにはいたっていません。
現状では、編集構造が違うのだから、そりゃ理解も違うよねという人間的な感覚を大切にしていくことしかできません。そのソフトウェアのもつ編集構造、僕は"枠組みのワクグミ"、"フレームワークの構造"という言い方をしますが、そこに着目することが重要です。ソフトウェアは編集構造を実にハード(固く)に表現します。それに逆らうというのは至難の業なのです。
さて、もう少し書きたいことがあるのですが、長くなってきたのでエントリを分けましょう。
![]() | 知の編集工学 松岡 正剛 朝日新聞社 2001-02 by G-Tools |

