梅田さんの一連のエントリが面白い(これはIT系でない方も読むべきだ。非常に考えさせられる)。
- 「これからの10年飲み会」で話したこと、考えたこと
- 「勉強能力」と「村の中での対人能力」
- 「知の創出」のコモディティ化への戸惑い
- 同世代の企業人を見つめて悩んでしまうこと
- 「ブログは面白いな」と改めて思った
- 「勉強」特権階級の没落
スペックシートに現れない、梅田さん曰く「人間が生きて暮らしていくこの社会において絶対不変の価値である「対人能力」「営業能力」」というものは、「人間力」とか、そういう言葉にくるまれて厳然と存在してきた。今の時代は、それがあることで差別化できる、それがないと差別化されてしまうということが表面に現れるようになってきた。
それはどういう意味かというと、個人とコミュニティの力の差ではないだろうか。
インターネットによる「デジタイズされた知の流通」は、知識のコモディティ化を生んだというよりも、個人で考えるよりも圧倒的に良い答えがコミュニティによって生まれているということだと思う。で、それはシェアされてしまうので、結果としてコモディティ(公共的)であるというだけだ。
だから個人の"勉強できる能力"に比べて、コミュニケーションやコラボレーションという能力がより大きなウェイトをしめているということだろう。秀才+秀才+秀才+…が、並みの天才を超えるわけだ。
その「コミュニケーションやコラボレーションという能力」というのは「適応力」とでもいうべきものだろう。
何のテレビだかわすれたけど「成功する外人タレントの条件は?」というのに、頭が良いことを上げていたけど、それって勉強が出来ることではないだろう。
ボビーにしてもボブ・サップにしても、目がクレバー。彼らがすごいのは求められている期待に対して演じられることだ。そういう、外部からのインプットに反応して、ものすごく早く(最良でないもしても)的確なアウトプットを出すことが出来る能力なんだと思う。プロのエンターテーナー。ま、悪く言えば要領だけは良いタイプとか、ボロを出さないタイプというか。
そもそも日本人はこういう適応力が低いのではないだろうか。もしかしたら、日本企業はこうした組織内での知のコラボレートを実現する最適な方法を選択していたのかもしれない。組織内での最適化を優先する余り、もっと大きな視点での適応力が犠牲になった。梅田さんはシリコンバレーが長いし、日本の大企業というよりも日本人のこういった面に危機感を持っている気がする。だから、すごくドライに
「なんで昔はあんなに凄かったお前が、こんなにつぶしの利かない、組織の外では(実は組織の中でも)何の役にも立たない奴になっちゃったの? それは、この「20年間の過ごし方」が間違っていたからなんじゃないの。でもその「20年間の過ごし方」って、今でも「それでいい」って思っている人がけっこう多い生き方なんじゃないの」
という悩みを持っている気がする。
時代は変わった。いまやコラボレートは企業を超えて世界規模で行われるものになった。そうすると、すでに日本的な手法は限界を迎えていると思わざるを得ない。先ほどの地頭力・適応力は企業にも当てはめられると思う。個企業の力よりも、コラボレートした力が大きいのは当然だ。それがソフトウェアの世界で言うところのオープンソースをビジネスに利用するという形で現れている(IBMのように自社の戦略商品をオープンソースで開発させるという形態においての)。
とはいえ、正解はどちらにもないと思う。組織内の最適化という秩序の世界と、世界規模のコラボレーションにおけるカオスの世界。どちらに落ち込んでも長期的な成功は得られないのではないだろうか。カオスのエッジを歩かなくてはいけない。
なわけで、梅田さんの
もし僕が日本の大組織の再建を任されたとしたら、まずすることは「この層」の中で飛び切りすぐれた人材(プロスポーツ選手クラス)をほんのわずか残し「この層」の大半を組織から一掃することを「組織のゴール」と設定し、そのためにはどういう順番で何をやっていくべきかを考えていくだろう。
というのは、ちょっと違うんでないの?と思ってしまったしだい。TOYOTAのカイゼンは、全員に適応力があるからできているわけではないだろうし。
適応力のある個人も難しいけど、適応力のある企業というのも難しい。ただソフトウェアの世界なら小規模でも適応力のある企業が出来る気がする。そんなところにいたら、そんなところが作れたら楽しいんだろなぁ。
