« 忘年会第1弾 | メイン | AISASはうそ? »

デュシャンの泉

マルセル・デュシャンの「泉」という作品をご存知だろうか。先ごろ、500人の芸術家による、「20世紀でもっとも最もインパクトのあった現代芸術作品」において、ピカソを抑えて1位に選ばれた作品だ。写真はコチラ。

izumi.jpg

どっから、どうみても便器。しかも、これは市販されていたもの。1917年、ニューヨークでの展示会において、市販されている便器に「泉」というタイトルをつけ、R・マットとサインをして出品した(R・マットは、便器の製造メーカーだとか)。この作品は、それまでの芸術やアートに対する価値概念に対して、「なにを持って芸術とすべきか」という問題提示を行った。ようは、誰かが芸術であるといってもしまえば、すべてが芸術だと証明したのだ。そして、芸術を哲学の世界に持っていくきっかけとなった。なお、この系統としては、アンディー・ウォーホルがあげられる。彼のマリリンやブリロ・ボックスをご存知の方も多いだろう。

美学への招待」(佐々木健一著 中公新書)では、芸術の歴史から"美学"という言葉の意味を導き出そうとしている。この本は、美と感性という人間の根本的な感覚に対して、芸術というものが、より直感から遠い知的な世界に向かって言うことを指摘している。とはいえ、"美"の持つ直感的なものは、失われることがないとも結論付けている。

僕がこんな本を読もうと思ったのは、ソフトウェアにおける芸術とはなにかということが知りたくてだ。結論としては、いまひとつなのだが、"美"というものが、やはり肌で感じる直感的なものだということは再認できた。以前、ある日本の伝統工芸師と話をしていたときも、最近の芸術は「解釈」ばっかりでつまらないという話になった。確かに僕もそう思う。泉にしても、マリリンにしても、伝統工芸品が持つような直感的で鳥肌が立つような美しさはない。確かに、思想として感銘を受けないでもないが、体で感じるものではない。ま、脳で感じるとでも言おうか。

では、ソフトウェアの美しさとはなんだろうか。僕は、ソフトウェアであっても、じかに触れて、使ってみて、コードを読んで、肌で感じるものがあれば、"美"は存在してもよいのだろうと思う。きれいなコードとは違う。実際、オープンソースのコードは、きれいとは言いがたいのではないだろうか。複雑性とも違う。むしろ、コードの後ろにある理念がシンプルであればあるほど「あ、すげ」みたいな感覚になることがある。たぶん、それが"美"に近いんだろうなぁ。

僕には、美しいコードを書く才能は足りていないようだが、これからもソフトウェアとは付き合っていく以上、美しさを見抜く目は持っていたいと思う。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.arclamp.jp/mt33/mt-tracback.cgi/1370

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2004年12月14日 03:01に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「忘年会第1弾」です。

次の投稿は「AISASはうそ?」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Creative Commons License
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.
Powered by
Movable Type